ワタシとダレカの脳内会議

〜ワタシのモヤモヤはAIジーニーちゃんがピカッと解決〜

やりすぎるワタシと、肩の力を抜きたいワタシ

今日のワタシは、疲れてる。

 


たぶん、心の中で「またやりすぎたな…」って思ってるんだと思う。

接客の仕事をしていると、「来てくれた人に楽しんでもらいたい」って気持ちが強すぎて、つい頑張りすぎちゃう癖がある。今日も話しすぎたかもしれないし、相手の反応を気にしすぎたかもしれない。

 


でもね、不思議なの。

お客さんが帰った後、すごく「疲れた」って感じるときがあって、その理由が今はなんとなくわかる。

ワタシ、やりすぎてたんだ。

 


「楽しませなきゃ」が癖になってる

 


これは水商売の時の癖かもしれない。

あの頃は、「ワタシを選んでくれたんだから楽しませなきゃ」って思ってた。黙っていると冷たそうに見られるのが怖くて、必要以上に話してしまう。お客さんの反応を気にしすぎて、「自分をアピールしなきゃ」って必死だった気がする。

 


それって今も変わってないのかな。

 

接客業は好きだし、選んで来てくれることには本当に感謝してる。でも、その感謝が「得体の知れない義務感」に変わってしまっているのかもしれない。「もっと笑わせなきゃ」「もっと楽しませなきゃ」って、いつの間にか自分を追い込んでる。

 


本当はどうしたいの?

 


ふと、こんな気持ちが湧いてきた。

「ワタシがワタシを楽しませてほしいんじゃない?」って。

 


お客さんに楽しんでもらいたいのはもちろんだけど、その前に、自分自身がラクでいることも大事なんじゃないかって気がしてる。頑張りすぎて疲れてしまう自分を見て、「ちょっと休んでいいんだよ」って声をかけたくなる。

少しずつ、肩の力を抜いたワタシで接客しても大丈夫かもしれないって思うんだ。

 


「話さないワタシ」でも愛されるかも

 


実際のところ、話しすぎないほうが相手がリラックスできることもあるんだと思う。

無理に自分をアピールしなくても、「ただそこにいるワタシ」が相手にとって十分な存在である可能性。そんな風に考えたら、少し気持ちが軽くなった気がする。

 


きっと、これからも「やりすぎて疲れる」日はあると思う。

でも、そのたびに「次はちょっと肩の力を抜いてみようかな」って試していけたら、もっと自然な自分でいられるんじゃないかな。

 


終わりに

 


この記事を書いていても、まだ気持ちは晴れていない。

だけど、晴れない気持ちの中にも、自分を見つめる時間がある。

 

その時間がきっと、ワタシをラクにしてくれる未来に繋がると信じてる。

今はただ、そんな自分を大切にしていきたいと思う。

 

 

 

青天の霹靂に揺れる私〜正しさを剥がして見えた世界〜

 

目が覚めた瞬間、窓から差し込む柔らかな朝陽が心地よかった。

 

「あぁ、今日もいい一日が始まるな」

 

そんなふうに思えたのは、最近では珍しいことだった。

だけど、それと同時に胸の奥から湧き上がる小さな声が聞こえる。


「本当にこれでいいの?」
「のんびりしていて大丈夫?」

 

せっかくの穏やかな朝が、その声で少しずつ曇っていく。


私は自分を気遣って生きているはずなのに、どこかで自分を否定している――そんな感覚。

 

この声はどこから来るんだろう?


私が心地よさを感じている瞬間に、わざわざ現れるその正体が気になって仕方がなかった。

湧き上がる否定の声

突然浮かぶ、あの声――

 


• のんびりしてちゃダメ。
• 支払いどうするの?
• どんどんお金が減っていくよ。

• 他人は良い顔してても、本当は別のことを考えてるんだから…。

 

 

頭の中で響き続けるこの声。
私は私を責めてるの?
だとしたら、なんで?

 

私がこの世界に生まれてきた理由、それは

「経験し、楽しむため」

だと思っている。
なのに、気分良く過ごしている私を、不安に引き戻すこの声は一体何なの?

敵はどこにいるの?

 

 

 

「敵なんて、いないのかもしれない。」

 

 

 

 

ふと、そう思った瞬間、胸に衝撃が走った。

これまで私を苦しめてきたものが、もし敵じゃないとしたら?
外からの攻撃だと思っていたものが、全部幻だったとしたら?

その答えを探すうちに、ある言葉が浮かんだ。

 

敵は本能寺にあり。」

 

歴史の授業で聞いたフレーズ。
でも、今は全く別の意味で私に刺さった。

もしかして、私の敵は「私自身」だったんじゃないか――?

 

 

正しさを剥がされて

 

その瞬間、足元が崩れる音がした。

それは、長い間信じてきた「正しさ」という柱が、音もなく消えた瞬間だった。

良い・悪い、正しい・間違っている――
これまでそれらを基準に生きてきたけど、気づけば、それが私を縛る鎖になっていた。

「こうあるべき」という正しさの服を着せられていた私は、裸になったような気がした。

怖いけど、不思議と軽い。

 

感覚を信じる

 

正しいも間違いもないなら、最後に残るのはただの「感覚」。
• 心地よいと感じるなら、それが私にとっての正解。
• 嫌だと感じるなら、それを無視しちゃいけない。

その感覚に従って生きればいいんだ。

敵はいなかった。
ただ、私が自分の感覚を信じられなかっただけだった。

すべてはこの瞬間のために

これまでの経験も、苦しみも、全部がこの気づきのためにあったんだと思う。
まるで伏線みたいに。

私を否定する声も、不安にさせる感情も、すべてが「私を守るため」に生まれたものだったのかもしれない。

そう思うと、私の中の否定的な声さえも、少し愛おしく感じた。

 

 

もう戦わなくていい。

 

 

これからは、もっと軽やかに、この世界を楽しんでいこうと思う。

 

 

【ハカイトサイセイ】 あとがきにかえて

 

ブログを書いていて、ふと気づいてしまいました。
ワタシ、もしかして水商売が苦手だったのかもしれません…
20年も続けてきたのは生活の為でもあったけど、ワタシ自身に負けたくなかったのかな…
今はまだわかりません
でも、
自分が向いていない仕事を「これが私の役割だ」って思い込んで、無理して、頑張りすぎて、その結果が心が壊れそうになったのかも。
ということは事実です

そう考えると過去のワタシを抱きしめたくなります
って言いながら、リアルに今のワタシを抱きしめています。

よく頑張った
えらい!
もう頑張らなくてもいいんだよ
本当のワタシに戻ろう
って声を掛けながら

でも、気づけたことって、すごく大きな一歩だと思うんです。
「これが私だ」って頑張ってたあの頃の自分を否定する必要はないし、
その経験があったからこそ、今こうやって自分を見つめ直すことができている。

「水商売の仕事が苦手だったかもしれない」って気づくことで、
これからの人生はもっと自分に優しくしようって思うんです。

誰だって、自分に合わないものを無理して続けるのは苦しい。
だからこそ、自分の心の声に気づいて、そこから少しずつ「ワタシらしい再生」を始められたらいいな。

【ハカイトサイセイ】――それは、きっと怖い言葉じゃなくて、未来への魔法の言葉に変わるとワタシが信じているから。

ハカイトサイセイ

ハカイトサイセイ

義務感に縛られるって、なんのための人生なんだろう?

今日は二日酔いで酒鬱真っ只中です。
頭はズキズキ痛むし、心の中は暗い雲で覆われたみたい。
でも、この感覚が問いかけてくるんです。

「これって、本当に私が生きたい人生なの?」

少し暴力的な表現や気分が悪くなる言葉が出てくるかもしれませんが、今日は「義務感」という重荷について話したいと思います

私たちを縛る義務感

「こうしなきゃ」「こうあるべきだ」――
そんな風に、自分でも気づかないうちに義務感に押しつぶされるような生き方をしていることってありませんか?

義務感って、最初は純粋な思いから始まることが多いんです。
「誰かの役に立ちたい」「自分の役割を果たしたい」。
でも、その思いがいつの間にか「やらなければならない」に変わり、重荷になることがあります。

私自身、長い間その重さに気づかずに生きてきました。
気づいた時には、体の中に深く根を張っていて、自分を支配していたんです

私を縛りつけていた義務感

20年間の水商売生活。10代後半から30代後半まで、私はこの仕事で生きてきました。
水商売には華やかな一面もありますが、実際には努力の連続です。

売り上げを上げるためにお客さんと一緒にお酒を飲むことは避けられない。
お店の雰囲気を盛り上げるために、どんなに疲れていても明るく振る舞わなければならない。
その場を楽しんでもらうために、自分のキャラを徹底的に演じる。

そして時には、お客さんから外見に関する心ない発言を受け流す必要もありました。
「もう少し痩せたら?」とか「今日のメイク似合わないね」。
何気ない一言が胸に刺さることもありました。

もちろん、その中でやりがいや楽しい瞬間もたくさんありました。
でも、同時にそれらをこなすために常に自分を抑え込み、気を張り続ける日々は、少しずつ私を追い詰めていきました。

仕事をしている間は、それが当たり前だと思っていたんです。
笑顔を絶やさず、誰かの期待に応えるために、精一杯自分を作り込む。
でも、仕事を離れた今、その「当たり前」がずっと私の中に残り続け、時には苦しみを生む原因になっていることに気づきました

苦しめられているのは義務感だけじゃない

義務感だけならまだしも、過去の感情や経験が今の私に影響を与えることがあります。
お酒を飲むと、フラッシュバックのようにあの頃の記憶がよみがえります。
極限状態で働いていた時のこと、そこで積もり積もったストレス。

ある晩、私は旦那さんの腕にあざを作ってしまいました。
翌朝、その痕を見たとき、頭の中が真っ白になりました。
「なんてことをしてしまったんだろう」と自分を責める一方で、心の中に別の声が聞こえました。

「これじゃ飲んで暴れる人と同じじゃん。私が1番嫌いな酒乱だ。」

でも、もう一つの声も聞こえてきました。

「もうやめよう。もう終わりにしよう。もっとワタシらしく生きよう。」

その瞬間、「壊したい」という衝動の奥には、「変わりたい」という切実な願いがあることに気づきました。

義務感を手放すということ

義務感を手放すのは簡単なことではありません。
20年間、無意識に染みついたものを変えるには時間もかかりますし、変わる勇気も必要です。

でも、私は気づいたんです。
「手放すことは、過去を否定することじゃない」
むしろ、過去の自分に感謝しながら、「今の私にはもう必要ないんだ」と認めることなんじゃないか、と。

過去があったからこその今。それを大切にしながら、少しずつ軽くなることができる。そう信じられるようになったんです。

義務感を手放す未来

義務感に縛られたままでは、見える景色はいつまでも同じです。だけど、一歩踏み出して背筋を伸ばしてみると、ふと視界が開ける瞬間があります。

私たちの世界は、私たち自身が創り出しているものだと思います。義務感に支配された風景を変えるには、思い切って壊す勇気が必要なときもあります。でも、その破壊の先には、必ず新しい景色が広がっています。

「壊したい」という衝動は、ただの破壊ではなく、「もっと私らしく再生したい」という願いの裏返し。義務感を手放すことは、その願いを形にする最初の一歩です。

どんなに小さな変化でも、それが未来を変える種になるはず。背筋を伸ばして、ほんの少しだけ視点を変えてみる。その小さな勇気が、やがて大きな再生につながります。

【ハカイトサイセイ】
それはきっと怖い言葉ではなく、魔法の言葉に変わるから

43歳の私から46歳、それからの私へ

 

43歳の誕生日、心のモヤモヤと向き合った記念日

 


10月17日は私の43歳の誕生日でした。

実は5年前、「43歳を境に生き方が180度変わるよ」と言われたことがあって。昨日ふと、「やばい、何かが変わるかも!」と直感で思い出しました。

 


でも、その一方で心の中はモヤモヤ…。

どうにかこのモヤモヤを忘れようと必死にもがいていたら、逆にもっと気持ちが悪くなる。

 


「なんなん!?💢 もーなんなん💢」

気持ちは怒りと、説明しようのないモヤモヤでぐちゃぐちゃでした。

 


それでも、「せっかくの誕生日だし、気分良く過ごさなきゃ」と無理やり気持ちを立て直そうとして、家中を掃除しまくり! 洗濯も乾燥機も全力稼働!でも…気分は全然晴れないどころか、さらに悪化。

 


「もー、せっかくの誕生日なのに!!!💢」

 


そんな時、友人たちからの「おめでとうLINE」を受け取って、ハッと気づいたんです。

「欲しいのは他人からのお祝いじゃなくて、自分自身からのお祝いだ!」って。

 


その瞬間、すべての家事をストップ!

「どうやったら自分を心からお祝いできるだろう?」って考え始めたんです。すると、不思議なことに考えれば考えるほど楽しくなってきて、まるで旅行プランを立てる時のようにワクワクが止まらない!

 


結果、今年の誕生日プランを通して来年のプランまで完璧に仕上がりました(笑)。

おかげで、とても幸せで、これまでにない特別な誕生日を迎えることができました。

 


企業から届く「お誕生日おめでとうクーポン」にさえ、心から「ありがとう!」と思えるほど満たされた気持ちでした。

 


モヤモヤ・イライラの原因はどこにある?

 


私たちはつい、モヤモヤやイライラの原因を外に探してしまいがちですよね。でも、本当の原因は外ではなく自分の中にあるんです。

「私の世界は私が創り上げているもの」。そう気づくと、視点が大きく変わりました。

 


心の中で、ふと「現実なんてどうでもいい!私の最高ってなんだろう?」と思った瞬間、小さい頃の私と娘の姿がイメージの中に現れたんです。

 


驚きと戸惑いを感じつつも、そのイメージの中で二人を思い切り可愛がってみました。ムツゴロウさんみたいに(笑)。

満足するまで可愛がると、不思議と心が落ち着き、そのチャンネルも自然と消えていきました。

 


誕生日に起きた奇跡のような出来事

 


その後、普段はそっけない娘から「おめでとう」のLINEが届き、夜にはプレゼントまで!

これには本当に驚きました。

 


「これって偶然じゃないよね?私、何かが変わりつつあるんだ!」

43歳を境に変わるという言葉は本当なのかも、と思わざるを得ません。

 


これからも自分の心の声に素直に耳を傾けながら、自分らしい道を歩んでいきたいと思います。

 


43歳の誕生日は、不思議で幸せで、心から充実感を味わえた記念日になりました。

 


ありがとうございました。

 


そして今

 


46歳になりふと振り返ると、43歳の誕生日が本当に大きなターニングポイントだったんだなと思います。

 


あのときは、イライラやモヤモヤに振り回されて必死にもがいていました。

でも、今ではそんな感情にとらわれることもほとんどなく、もっと広い視点から自分や周りを見られるようになった気がします。

 


私のために生きるという言葉は、なんとなく抽象的に聞こえるかもしれませんが、私にとってはこういうことです。

• モヤモヤがあったら、そのままにせず立ち止まること。

• 「どうしたい?」「何が心地いい?」と自分に問いかけること。

• 無理に頑張らず、時には休んで自分をいたわる選択をすること。

 


つまり、私のことを後回しにせず、まず自分の気持ちや感覚に正直でいること。

それが「私のために生きる」ということなんだと思います。

 


私は算命学を勉強しています。

元々の占い好きが高じて10年近く学んできました。算命学には10年ごとの大きな流れをみる【大運】というものがあり、私は3歳運。

3歳・13歳・23歳・33歳・43歳…と、10年ごとに運気が切り替わっていく宿命です。

 


振り返ってみると…

• 3歳からの10年 両親が離婚したり、幼い私にとって激動の10年。

• 13歳からの10年 結婚、出産と喜びが広がっていく10年。

• 23歳からの10年 離婚して子育てしながら世の中を知った10年。

• 33歳からの10年 起業して、再婚するというステップアップの10年。

 


そして、43歳からの10年は【私が本来の私に戻る】時期のような気がしています。

 


過去の私がもがいていたのは、今の私のため。

そして、今の私が未来の私にしてあげられることは、こういうことです。

 


私の幸せが最優先で、どんな時も私を責めない

 


これからの10年も、自分をしっかり見つめながら歩んでいきたいと思います。

 


窓から差し込む冬の光のように暖かく、そして柔らかく包み込むような人になりたいです。

 

元カレが忘れられない?心が恋しいのは“あの頃の私”かも

 

【元カレ】が忘れられない…

 


その気持ち、本当に彼への想いでしょうか?

もしかすると、恋しいのは“あの頃のあなた自身”かもしれません。

このブログを読んで、自分の気持ちの正体を一緒に探してみませんか?

 


最近、恋愛系ASMRを聴くのにハマっているんです。

甘くてドキドキする感じで、聞いていると元カレを思い出しちゃうんですよね…。

 


元カレとの時間は確かに特別でした。

官能的で、刺激的で、幸せだったな…なんて。

 


でも、思い出すたびに、彼がついていた嘘もよみがえってきます。

嘘っていうより虚言かもしれない。

 


そのたびに、こんな気持ちが湧いてきます。

 


「もしかして…まだ元カレのこと好きなのかな?」

 


でも、ちょっと冷静に考えてみたら、別の答えが見えてきたんです。

 


私が恋しいのは“あの頃の私”だった!?

 


ASMRを聞いて思い出したのは彼との記憶だけじゃなくて、あの頃の私自身だったんじゃないかって気づいたんです。

 


実は、元カレと付き合っていた頃の私は、自分史上最高でした。

• 仕事も順調

• 忙しいのに肌ツヤ最高

• メイクのりも最高

 


そして何より、恋愛している自分がキラキラしていました。

 


今、ダイエットを頑張っているのも、少しでもその頃の自分に近づきたいからなんですよね。

そんな記憶を思い返しているうちに、ふと気づいたんです。

 


「もしかしてワタシ、元カレのことが好きなんじゃなくて、あの頃の自分が好きだったんだ。」

 


好き”の勘違い、脳のトリック

 


人って、幸せな記憶を“その相手”に結びつける傾向があるらしいんです。

でも実際は、幸せを感じていたのはそのときの自分なんですよね。

 


脳がその記憶を勝手に「彼がいたから」と思い込ませているだけで、本当に恋しく思っているのは**「幸せだったあの頃の私自身」**だったんだなって。

 


元カレへの執着をほどいてみたら

 


この気づきで、気持ちがスッと楽になりました。

 


元カレとの思い出は私の一部ではあるけれど、それだけじゃない。

あの頃の自分が作り上げたキラキラした世界も全部ひっくるめて、大事な過去。

 


その頃の自分に戻りたいと思ったとき、元カレがいなくてもいいんだってわかったんです。

 


自分に問いかけてみて

 


もし、元カレが忘れられないって思っている方がいたら、ぜひこう問いかけてみてほしいんです。

 


「私が恋しいのは彼?それとも、あの頃の私?」

 


答えは、意外とシンプルかもしれません。

でも、それに気づくためには、少しだけ自分と向き合う時間が必要かもしれないですね。

 


幸せの正体を見つけたら

 


思い出は時にキラキラして見えるものです。

でもその輝きの正体は、“あの頃の自分”が自分自身に向けた愛情だったのかもしれません。

 


そう思うと、今の自分も大事にしてあげたくなりませんか?

 


過去から未来への一歩

 


今の自分を好きになるために、どんな小さな一歩でもいいから始めてみましょう。

たとえば、

• お気に入りの写真をアルバムに整理してみる

• あの頃好きだった音楽をもう一度聴いてみる

• 新しい香水を試してみる

 


そんな些細な行動でも、過去に縛られない自分に出会えるきっかけになるかもしれません。

 


過去も未来も、大事な自分

 


元カレとの思い出は、あなたが作った大切な一部。

でも、それ以上に素敵な未来を作る力も、あなたにはきっとあります。

 


その力を信じて、一歩を踏み出してみてください。

 


どんな小さなことでも、最初の一歩が未来の始まりになるんですから。

 

 

心の声は未来のワタシ? 〜細い道で出会った「怒鳴る人」〜

日曜日の昼下がり。

コーヒーを片手に、海を見に行く途中だった。

空の青さと海のきらめきが私を待っている、そんな気がしていた。

 


でも、その期待を裏切るような出来事があった。

 


怒鳴り声の衝撃

 


海沿いの細い道。

対向車とすれ違うのもギリギリの道幅で、前方から黒い車が近づいてきた。

慎重にハンドルを切り、なんとかやり過ごそうとしたその瞬間。

 


「ヘタクソ!」

 


怒鳴り声が突然窓越しに飛び込んできた。

 


体がビクリと反応し、息が止まる。

ちらっと見えた男性の顔は険しく、怒りで歪んでいた。

 


「なんであそこまで怒鳴る必要があるの?」

 


胸の中に引っかかる疑問を抱えたまま、その場を離れたけれど、モヤモヤは消えない。

 


車を停めて気持ちを落ち着けようとしても、あの場面が頭の中をぐるぐるしていた。

「どうしてこんな出来事が起きたんだろう?」

 


ワタシの世界はワタシが創造している

 


私は「ワタシの世界はワタシが創造している」という考え方を信じている。

 


この考え方は、一見スピリチュアルなようでいて、実はとてもシンプル。

たとえば同じ景色を見ても、「綺麗だな」と思う人がいれば、「特に何も感じない」と思う人もいる。

それは、目の前の景色そのものが変わるわけではなく、それをどう「意味づけるか」が人それぞれだからだ。

 


だから、嬉しい出来事が起きた時は「私がその状況を引き寄せた」と思える反面、嫌な出来事が起きた時も「私のどこかがそれを投影しているのかも」と考える。

これは自分を責めるためじゃなく、自分を見つめ直すきっかけになる感覚だ。

 


でも、じゃあ、あの怒鳴る男性は?

どうして私がそんな場面を「創造」する必要があったのだろう?

 


心の声と駐車場

 


怒鳴られる前、私は混雑した駐車場に入っていた。

 


「ここは混んでるなあ」と諦めかけた時、心の中に小さな声が聞こえた。

「端っこの方なら空いてるかも」

 


でも、その声を無視してしまった。

「そんな都合よく空いているわけがない」と、自分で勝手に決めつけたからだ。

 


そして駐車場を出た直後、怒鳴られる出来事が起きた。

 


今になって思えば、あの声は私を助けようとしていたのかもしれない。

「そっちの道はやめておきなよ」って。

 


未来の私からのメッセージ

 


もしかしたら、あの声は未来の私が送ってくれたメッセージだったのかもしれない。

未来の私が、「これを避けて」と警告してくれていたのだとしたら?

 


過去にも同じような心の声を感じた瞬間があったことを思い出す。

「ここでやめておこう」

「今やった方がいい気がする」

 


あの声を信じなかった結果、後悔したこともたくさんあった。

そして、その後悔がまた、私を育ててくれた。

 


今、この瞬間を信じる

 


未来の私が今の私を助けてくれるなら、過去の私もまた、今の私に何かを託してくれている。

「過去は変えられない」と言われるけれど、私はそうは思わない。

過去があるから今があって、今の選択次第で過去の出来事の意味だって変わる。

 


たとえば今回の出来事も、怒鳴られた瞬間だけを切り取れば嫌な思い出だ。

でも未来の私が「この出来事で気づけた」と振り返れば、その意味は変わる。

 


未来の私も、過去の私も、今の私を信じてくれているなら、私もその声をもっと大切にしたいと思う。

心の中で「これだ」と感じたことに、もう少しだけ素直になりたい。

 


心の声を頼りに歩いていけば、そこにはきっと、未来の私の笑顔が待っている。

そう思うだけで、明日がちょっと楽しみになる。